カジノ

アメリカのカジノ

カジノ」という言葉を聞いて最初に思い浮かぶのは、ラスベガスで過ごす週末ではないでしょうか。ネバダ州に位置するこの街は、「エンターテインメント界の都」と言われ、世界中のカジノプレーヤーを魅了しています。

禁酒法時代のアメリカでは、地下カジノが生み出されました。これらの場所は組織犯罪に乗っ取られ、潜り酒場がカジノの場となりました。

禁酒法時代が終わった1933年にアルコール消費も再び許可され、アメリカ全体、特にラスベガスに数多くの新しいゲームホールが誕生しました。1946年には世界的に有名なフラミンゴホテルカジノが完成し、以来この都市は成長を続けています。

しかし、アメリカでギャンブルが文化の象徴となったのはラスベガスだけではありません。ニュージャージー州のアトランティックシティも多くのカジノを有し、ラスベガス同様に観光客が集まり、ゲームを楽しんでいます。

ラスベガス

ラスベガスは、1905年に最初の開拓者が来た後間もなくしてカジノが建てられ、現在のゴールデンゲートホテル・アンド・カジノが、ネバダホテルとして1906年にオープンしました。20世紀の終わりまでに、ラスベガスはこの時代に開拓されたアメリカの都市の中で最も人口の多い都市となりました。1960年代以降人口増加が加速し、2000年の人口は1990年のほぼ2倍に上っています。

最近のラスベガスは、カジノ、ホテル、レストランなのど観光スポットで占められ、そのほとんどがラスベガス・ストリップの近くに位置しています。しかし、必ずしも常に華やかなリゾート地であったわけではありません。1930年にフーヴァー大統領がボールダーダム(別名フーヴァーダム)建築許可を出し、これにより膨大な数の労働者が職を得ましたが、彼らが余暇に費やせる時間はほとんどありませんでした。その結果、街の経営者達はマフィアのボスたちと手を結び、カジノや娯楽リゾート建設を進めて行きました。こうして1931年にはノーザンクラブがオープンし、労働者がラスベガスの醍醐味を満喫し始めました。

1930年以来、街には様々な変化があり、多くのスポーツイベント、主に格闘技の試合が主催されるようになりました。1980年のモハメド・アリ対ラリー・ホームズ戦、1997年の「噛みつき試合」として有名になったイベンダー・ホリフィールド対マイク・タイソン戦、また、2015年のメガファイト、フロイド・メイウェザー対マニー・パッキャオ戦もこの街が主催しました。

アトランティックシティ

ラスベガスほどの規模はありませんが、アトランティックシティの歴史はさらに古く、1854年に開拓が行われました。街の構築はモノポリーゲームからヒントを得ており、街に乗り入れする鉄道も建設されました。ホテルの建築も始まりましたが、ラスベガス同様、禁酒法時代に景気低迷に悩まされました。1976年のギャンブル合法化により街は生き残り、2008年の経済危機時に4つのカジノが撤退したものの、街は発展し続けています。閉鎖したカジノの中には、1984年のオープン以来2014年の閉鎖まで、この街で最もお粗末な業績を残したトランプ・プラザも含まれています。デラウェア、メリーランド、ニューヨーク、ペンシルベニアなど、近くの州のギャンブル合法化もこの街の問題に影響を及ぼしています。

それでも、アトランティックシティは「東海岸のギャンブルの都」として知られ、7つの大規模なカジノを有しています。

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