カジノ

1950年代のラスベガス

1950年代、ラスベガスに大きな変化が起こりました。1905年に開拓されたばかりの都市、ラスベガス・バレーの人口は、わずか半世紀後に44,600人にまで増加しました。年間8百万人以上の観光客が訪れ、その多くはスリルに富んだカジノを楽しんでいました。当時の記事によると、旅行者がカジノに投じた金額は年間平均2億ドルに上っていました。

第2次世界大戦中に人口は3倍になりましたが、街の開発にはギャンブル業界を統制するマフィアの支配の脅威がまん延していました。1951年までに、組織犯罪の金の流れが間違いなくラスベガスのカジノと関連づいていることが、裁判にて結論付けられました。巨額の収入を得たマフィアグループの影響力は高くなる一方で、街をを支配し始めていました。政府のギャンブル統制を強める目的の提案が議会に提出されましたが、ネバダ州の上院議員パット・マッカランの意見により、委員会で棄却となりました。

ギャンブル法設定に力を注ぐ政府がこの街の将来を懸念する一方で、わずかその65マイル先では、それよりもはるかに憂慮すべき危機が生じていました。1951年に、ネバダ核実験場で地上核実験が始まり、「アトミックフィーバー」が起こりました。1952年に核実験がテレビで放映され、それによってラスベガスのカジノで多くのコンテストがおこなわれるようになり、核実験停止条約が有効となる1963年まで、原子カクテル、原子ヘアスタイル、ミス原子爆弾コンテストなどが、エンターテイメント界に登場しました。

しかし、10年後には、ラスベガスを訪れる人々の目的はギャンブルだけではなくなりました。モルモン教の銀行家が、トロピカーナをはじめとするホテルやカジノリゾートに投資し、フランク・シナトラと、世界的に有名なラットパックが定期的に公演をおこないました。ラスベガスは、エルヴィス・プレスリーが1956年に最初のショーをおこなった場所でもありました。

エルビスの登場

1956年、エルヴィス・プレスリーは、シングル曲「ハートブレイク・ホテル」の大ヒット後、ラスベガス・ストリップのニューフロンティア・ホテル&カジノで2週間の公演を行いました。しかし、彼のオープニング公演は、プレスリーのファン層ではない評論家や観客には評判がよくありませんでした。しかし、期待外れのスタートにも関わらず、1976年のラスベガスでの最後のステージまでには、プレスリーは誰もが心酔する大スターとなっていました。

ラスベガスは、プレスリーの人生において、あらゆる面で大きな意味を持った場所でした。彼は数々の主演映画が作られる前の1956年にここでデビューし、また彼が結婚した場所でもありました。さらに、彼の最後の公演の場となり、輝かしい凱旋公演を行いました。しかし、この頃には彼は孤立し、深刻な薬物中毒に悩まされていました。

ラット・パックの正体は?

1950年代のラスベガスは、映画や音楽界のビッグネームを魅了し始め、その象徴となったのは「ラット・パック」として知られたグループでした。この俳優達で構成されたスーパーグループは、フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィス・ジュニア、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップ、後にはビング・クロスビーから成り、1950年代から1960年代にかけて、ラスベガスのステージで公演を行いました。

トロピカーナ

1957年、「ミンスキーズ・フォリーズ」が活気づき、初めてのトップレスショー、ショーガールがデビューしました。同年の4月、トロピカーナホテルがオープンしました。建築家、ベン・ジャッフェはラスベガスで一番素晴らしいホテルにしようと、カジノのイメージを抑えてキューバのテイストを取り入れ、宿泊客には、フランスの田舎、極東、イタリアのルネサンスなど、様々なテーマを持った部屋を提供しました。

このホテルは、「ラスベガス万才」、「007 ダイヤモンドは永遠に」、「ゴッドファーザー」など、数多くのヒット作映画の舞台となりました。

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